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暦と科学と術



 暦法にこだわり、あれやこれやと詮索し、「暦のシステム」なるものを確立せんと、追求しているお人が存在する。

 例えば、ある人は、太陰太陽暦で術数を統一しようとし、1日の始まり子の刻は午後11時であり、星相学系の紫微斗数のみならず、子平においても古来そうであったという理由で午後11時説を主張する。

 他方、子平は干支暦に基づくものであり、干支暦の元の考えは太陽の運行に根ざすのであるから、太陰太陽暦とは無関係であり、太陽暦的な考えをする以上、1日の始まりは午前0時であるとする説がある。

 これらの説の対立は、暦のシステムを科学的に1つにしようとする限り、収拾がつくことはない。問題はそこにあるのではなく、術の特色の相違に帰する。

 日本の気学の一派では、日の九宮の運行に陽遁が存在せず、陰遁のみとする。これは、おそらく中国にもない説である。田中胎東氏に発する説は、通常の陰遁陽遁暦をもとに、陰遁のみの暦を作成する。そして、通常の暦に基づく「祐気取り」よりも効果が優れているという理由で、暦の改変を意に介さない。

 術と科学とが同一次元で論じられるべきものであるという前提に立つならば、この改変はそもそも論外ということになり、異端イコール無価値として葬り去られるであろう。

 しかし、術は、科学ではない。3次元という限定された世界における制約を背負っている従来の科学では解明出来ない何かである。術の存立基盤を暦のシステムに求め、1つのシステムに統一しようという試みは、あたかも古典心理学において、パブロフの犬の解剖実験により条件反射を説明して、犬の心のメカニズムを納得したとするレベルの、お寒い話である。

 次に、年の始まりについて諸説がある。単純に分けて、立春説と冬至説である。その他、干支と九宮は年の境界が異なるとする説もある。

 日本では通常、立春説が多数説とされ、冬至説は異端とされる。しかし、実はこれには、反証を数多く挙げることが可能なのである。

 術の優劣の比較は相対的なものとは言っても、結局は的中率の高いものに需要は集まることになる。その際、優劣は術毎に判定されるべきもので、暦のシステムによる判定は一応保留されることになる。

 従って、暦法を詳しく研究し、通暁したからといって、それだけでは術の大元を押さえたことにはならないであろう。この点、もし錯覚している方がいるとすれば、気づいて欲しいものである。


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