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奇門遁甲の歴史(日本篇)



 公伝は、西暦602年(推古10年10月)、百済の僧 観勒が天文、遁甲、暦書を伝えたのが最初です。(「日本書紀」)
 民間ベースではそれ以前にも伝来していた可能性があります。
 江戸時代の栗原信充の「遁甲提要」によれば、観勒が伝えてから、大友村主高聡、浄蔵法師が学び、後に磁岳朝臣川人が学んで新術遁甲書二巻を書いたとありますが、伝わっておりません。栗原氏の書では足利学校に伝わったとしています。(菅原註)
 栗原説では、日本に伝わったのは今日多く知られる符使式のものと異なり、史記で述べている旋式という種類のものだろうとされています。
 その後、飛鳥時代に天武天皇(?〜686)が遁甲術を使用されたことが伝わっています。
 大友村主高聡の系統で学んだらしいと一説に云われます。静の座盤(旋式の一種)ではなかったかと云われます。(内藤説)

[彼は呪術的な法力をもつ天文遁甲の術を用いるといわれ,反乱軍であるにもかかわらず兵を思うがままにあやつって,神と畏れられた。この乱によって弘文天皇(大友皇子)は自殺に追いこまれた。そして翌673年2月27日,彼は飛鳥の浄御原(きよみはら)宮に即位式をあげて天武天皇となった。] (「日本書紀」)

 それ以外は、歴史の表舞台に登場したことがほとんどありません。

 隋の文帝のとき(581〜604)行政上、軍事上の理由から発禁され、それにならい日本でも養老令(職制律、雑令)で禁じました(太一、遁甲)(制定718年、施行757年)。
 但し、禁止は表面上であり、命脈は伝わっていたと思われます。
 他に日本独自に発達した兵法(ひょうほう)が存在し、遁甲術は一部姿を変えてそれらに包摂されたものの、武術としても伝わっております。
 戦国時代においては、日本兵法が戦国大名により盛んに用いられました。原理的に遁甲とは別の方術です。

 近世、江戸時代には、「奇門大全」という書が存在したと云われますが、現存せず、内容は不明です。
 また、牢人で軍学者の由井正雪が慶安の変(1651)を起こした際、軍学の一部として遁甲方術を応用したとも云われますが、真偽は不明です。

 明治時代、栗原信充著「遁甲提要」「遁甲儀」「遁甲譚」、多田鳴鳳著「八門遁甲秘録」、松浦琴鶴著「奇門秘録」、立川小兵衛著「遁甲奇門」、犬山龍叟著「八門遁甲陰陽発秘」、柄澤照覺著「八門遁甲秘伝」等が発刊されました。

 太平洋戦争後、張耀文氏を掌門とする台湾透派の奇門遁甲が昭和35年以降、内藤文穏氏に伝えられ、透派奇門遁甲自体も出版物、講習を通じて流布しました。
 内藤氏の遁甲は、中村文聡氏の気学、透派奇門遁甲を出発点としつつも数十年の研究を経て独自の理論的進化を遂げ、太古の旋式遁甲を復元した功績は日本における一大金字塔といえるものです。
 また、昭和40年代以降、命理(子平)と連携させて応用する奇門遁甲が武田考玄氏(故人)により創始されました。個人差を重視した用法が特色です。
 現代日本の奇門遁甲は、大別して(1)内藤氏と武田氏の理論(2)透派(3)原書研究派(4)その他(独自派)に分類されます。

註. 明治9年頃に散逸した可能性もあり。

(主要参考文献)
「秘伝元空占術」「文穏流遁甲風水術秘談」内藤文穏著
「極意奇門遁甲玄義」「奇門遁甲個別用秘義」武田考玄著
「奇門遁甲天書評註」「奇門遁甲地書評註」張耀文 佐藤六龍共著
「活盤奇門遁甲精義」高根黒門著
「黄帝神技三元奇門遁甲術」楠羅山著
「光雲流奇門遁甲術(初級篇)」菅原光雲著(電子版)


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