中国の原書に残る「奇門遁甲」は、太古の昔戦争に使用されたもので、唐の時代に一度散逸し、真伝が不明になったと一説には云われます。 成立年代が確実な最古の原典である『煙波釣叟歌(賦)』には、符使式という「九星」、「八門」を中心にした作盤法が説かれ、天(九星)人(八門)地(八卦=九宮)の三才を術自体に表しています(注1)。 しかし、符使式作盤法を残した趙晋氏が兵法家(日本の「ひょうほう」とはややニュアンスが異なり集団的)であったことにも見られる通り、集団利用の奇門遁甲でした。 その後、明の時代になって著された『奇門遁甲全書』は節気三元の局数の記載はあるものの置潤法(うるうの置き方)や時盤において72局を採るのか1,080局を採るのかの記載がなく、わずかに劉伯温氏の序文から氏は72局を採るらしいと推測出来るのみです(注2)。 風水とは異なり動的方位術としての特徴が強調されたためか、「吉凶動より生ず」の動的側面のみで、静的側面が文献に残らず、集団に対する個人の利用法には言及されていませんでした。(それらしきものは個人を対象にする命理や道教のまじない「符呪」ぐらい) 近年(昭和40年代)に日本に伝わった中華民国の張耀文氏の奇門遁甲は、「天書系天盤」の理論を含む1,080局の高度な奇門遁甲で、中国人が自発的に異民族の日本人に伝えたという点からも画期的な出来事でした。 しかし、氏の奇門遁甲には静的側面が含まれておらず、その後、氏の流派「透派」の影響を受けた国内の全ての流派がこの点を踏襲したため、個人の利用にはあまり適さない奇門遁甲が一般に流布する結果になりました。 昭和40年代において既に個人別用法の特異性に気付いて追究された賢明な先人もおられましたが、惜しむらくは静的側面をその理論に含んではいませんでした。 中華民国・中国においては奇門遁甲には風水がワンセットで付随する形で扱われる伝統があり、両者が別術でありながらも不即不離・密接な関係があることを窺わせます。 個人別用法においては、堪輿(中国風水)も一面関わって来るのが奇門遁甲の真実です。
(注1) 天人地三才に関し『奇門五総亀』に記載がある。 (注2) 『奇門遁甲 総序』に「地盤九星與奇儀 五日方移法 地道之貞靜也」とある。なお、直前に「天盤九星共奇儀而一時一易 象天之旋転」とあるのに注目。地盤が排宮派、天盤が飛宮派の独特の奇門遁甲であった可能性がある。勿論、透派とは異なる作盤法である。 |