2002年12月16日(月) 0:6:54 61.124.61.141 2005.6.23更新
鬼門については、現代では習俗・迷信と言い切って差し支えないと思います。
この文章を書いた契機は、風水鑑定依頼に際し、あるお客様からの質問で「鬼門は影響あるのか」とメールで聞かれたことです。
しかし、問題にすること自体かなり恥ずかしいということを前提に、以下をお読み下さい。
なお、現在では鑑定依頼を除き、メールによる質問には原則としてご返事していません。(2004.4.1追記)
鬼門の「鬼」ですが、丁度昨日、「ザ・リング0 バースデイ」がTVであり、し
っかりビデオ録画しましたが(笑い)、「貞子」は昔風に言えば正に鬼ということに
なりましょう。現代的には、霊能力の強い超能力者で、陰陽道の式神のように自分の
分身がおり、本人の危急を救うために他人から見れば色々悪さをする、ということに
なりましょう。ただ、悲しい星の下に生まれ業を背負った女性として描かれていました。
風水の八宅派で、五鬼方は門の向きで変化するもので、北東に固定していません。
ただし、奇門遁甲で九星の起点を天蓬、八門の起点を休門とするように後天八卦定位の
坎位を起点とするのとパラレルに考えると、坎宅に代表させて北東五鬼(表鬼門)、
南西絶命(裏鬼門)と説明することが可能かも知れません。(末尾<補注>参照)
鬼門は、八門で生門、九宮で八白、九星で左輔であり、いずれも吉です。元代の
「三白寶海」でそうなっています。反対に、裏鬼門は、死門、二黒、巨門で凶です。
固定した静的方位としてはむしろ「裏鬼門恐るべし」の論拠になり得ます。
徳川家光の時代、金地院崇伝と共に参謀だった天海僧正は(崇伝は仏教徒らしく仏
教派でしたが、天海は神道寄りで)、日本の陰陽道というよりは最早民間伝承化・俗
信化していたと思われる「鬼門」をおそらくは政治的に利用し、太田道灌が室町中期
に建立した江戸城(今の皇居)の鬼門の方角に鎮守のため上野寛永寺を建立しました
。東北の伊達政宗が健在だったので、雄藩伊達家を牽制するためだったと言われてい
ます。江戸幕府を滅ぼすのは恐らく伊達氏だろうとの予想の下の行動でしたが、あに
はからんや、約240年後、幕府を滅ぼしたのは、南西の裏鬼門の方角から攻め上っ
てきた薩摩を中心とする雄藩でした。
また、現在、地図上で方位をみると、30度角・45度角いずれでも寛永寺は江戸
城の北方であり、北東ではありません。測量ミスがあったと思われます。
鬼門は、時刻でいうと丑寅の刻、明け方の陰極まって陽に転ずる清浄の時間帯にし
て侵すべからずの意味合いがあり、トイレ等の不浄のものを置くべからずということ
で忌み嫌われたわけです。
日本の気学家相は、よくもまあと言いたくなるほどトイレの位置を重視し、中国風
水上も水法として、一理はあるのですが、「鬼門」の思想と結びついたと言えるでし
ょう。
術上は、むしろ黄泉八殺(八殺悪曜)を絶対に避けるということが風水三合派・三
元派の一部で定石とされており、神殺の嫌いなT派もこれだけは実証あるものとして
例外的に重視しています。(私は神殺も実証あるものは軽視しません)したがって、
風呂もトイレも、水まわりは、黄泉殺を避ければ凶はなく、一般的には八宅派+本命
卦でみた凶方に配置することになります。私は鑑定にあたってはもう少し複雑な技法
を使用します。
鬼門に関してさらに付け加えますと、実証的には、固定した方位としての限界はあ
りますが、裏鬼門のほうが重要です。敷地の南西にあった井戸を埋めたところ、主人
が仕事中事故死する(それも無残な亡くなり方)、その後、未亡人が50代前半の若
さで膵臓癌で亡くなるという凶災が続出した実例が東北地方の知人の旧家でありまし
た。(勿論詳細に調べれば他の術上(陽宅風水、命理)の条件も備えていたはずであ
るとは思います)(昭和46年、59年の事例)
以上から、鬼門にもそれなりに意義がありますが、実証上は重要度が薄いと言える
と思います。 表鬼門・裏鬼門の状態が悪いために運気に悪影響があることは確かです
が、表鬼門・裏鬼門だから特別悪い、ということはなく、陽宅風水と一家の主人の命理も同
時期に悪いはずです。陽宅風水と命理が優先します。
<補注>鬼門の起源として、B.C.3世紀頃の蒙古地方の匈奴が中国北方に頻繁に侵入したことから、漢民族に恐れられ、北東が異民族(夷、胡)の門とされるに至ったと考えられます。さらに、B.C.6世紀頃の「山海経」、B.C.3世紀頃の「神異経」に北東に棲む鬼に関する記述と「鬼門」という用語が存在します。